リンカ

©Dita Amiel
最近、わたしはリンカのことをたびたび想い、彼女のその後を想像してみる。あのとき彼女が死へのはげしい誘惑に打ち勝っていたなら、いまは70歳のはずだ。きっと、弟の形見の名のついた息子「ミェテク」、ヘブライ語では「モシェ」がいて、その子は友だちからは「モシク」と呼ばれているだろう。モシクはコンピュータ技師に違いない。だって、ポーランド人の母親には弁護士か医者か技師ぐらいの息子でないといけないのだから。それに、きっとのっぽで生意気な孫もいるだろう。孫たちは、「……ていうか」とか「まあな」なんてしゃべり、そのうちのひとりは、ちょうど今年、落下傘部隊士官コースを修了し、任官式典で彼女は感極まって涙し、「わたしの孫がユダヤの国の軍隊で士官になった」と胸のうちで呟くのだろう。
彼女には、テルアビブの高級住宅地ラマトアビブが似合う。そこに住むなら、ハイテク企業サイテックの輸出部門を統括して、白のミツビシを乗りまわす、いまなお風采のいい夫がお似合いだ。彼女は髪をブロンドに染め、Gのモノグラムのついた注文仕立てのグッチのスーツを着ているだろう。きっと月に1回、月曜日に、新オペラハウス隣りのカフェ・アプロポ(註2)でわたしたちは会い、彼女はコーヒーに合成甘味料を入れ、洒落た、細めの煙草イヴを手にしているだろう。
だが、すべては無。リンカは黒く冷たいドイツの泥土に葬られたままだ。それに、夫が心臓か脳の発作に襲われたらどうしよう、孫が兵役でレバノンに送られるかもしれない、自分もアルツハイマーやパーキンソン症になるんじゃないか、という不安から解き放たれているのだ。かつて、わたしは死を選んだ彼女の勇気に憧れた。いま、わたしは、生を選ぶ方がずっと大きな勇気がいる、とわかっている。
註1 タデウシュ・ボロブスキ(1922-51)、パウル・ツェラン(1920-70)、プリーモ・レーヴィ(1919-87)、イェジー・コシンスキ(1933-91)、ボグダン・ヴォイドフスキ(1930-94)。いずれも、ショアをくぐり抜けたが、戦後に自殺したユダヤ人作家・詩人。
註2 カフェ・アプロポは1997年に自爆テロに遭って閉鎖した。
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